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マティスが好きな大学生の日常

ふつうの大学生のふつうの日常です。

大澤真幸『不可能性の時代』

 大澤真幸『不可能性の時代』メモ。

 1997年に起きた、神戸市須磨区での連続児童殺傷事件。犯人は、犯行声明を通じて、自らを「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った。彼は14歳だった。彼は犯行日記とも呼ぶべき手記を書いており、それによると一連の犯行は「バモイドオキ神」なる私的な神への儀式であった。

 この事件に対する大澤真幸の推理が冴えわたっている。


 一つだけ書き留めておくにする。

 「バモイドオキ」という名は「バイオ・モドキ」のアナグラムであろう ( !! ) 。彼は人間が本当に死ぬのか、生命なのか、バイオなのか知りたかったのだ。こいつら偽物だ、こいつらモドキじゃないのか?ゆえにこの殺人は生物学的実験なのだ。





 「リスク社会」の社会学的定式化についてのメモ。


 どのような視点から捉えても「救済」や「希望」の可能性を見出すことができない社会システム。このような社会システムを分析するための概念が社会学にはある。ウルリッヒ・ベックによって提唱された「リスク社会」なる概念がそれである。

 リスク社会とは何か?リスクはとりたてて現代に現れたものではなく、伝統社会にもあふれていたのではないか?たとえば自然災害の脅威はリスクではないのか?そうではない。そのことを理解するためには<リスク>と<危険>との相違を把握しておかなくてはならない。ニクラス・ルーマンがとくに強調していることだが<リスク>は選択・決定との相関でのみ現れる。<リスク>は選択・決定に伴う不確実性 ( の認知 ) に関係しているのだ。<リスク>とは何事かを選択したときに、それに伴って生じると ( 認知 ) された不確実な損害のことなのである。それゆえ伝統的な社会において自然災害は<リスク>ではない。それらは、自らの選択の帰結とは認知されていないからである。とすれば、リスクが<リスク>となるのは、社会秩序を律する規範やその環境が人間の選択の産物であるとの自覚が確立した近代以降だということになる。自然すらも社会がコントロールすべき環境だと認知されたときはじめて自然災害は<リスク>となる。

 だから<リスク>はアンソニー・ギデンズが近代の本質的な特徴として挙げている「再帰性」を必要条件としている。どのような行為も規範を前提にしている。ギデンズによれば近代社会においてはその規範への反省的・再帰的な態度が浸透し、常態化している。すなわち規範を「変えることができる or 変えるべきである」との自覚を前提にして、規範が不断にモニタリングされ修正や調整がほどこされるのが近代社会である。そして<リスク>は再帰的近代に至らなければ、ここかしこに見出されるような状態にはならない。実際「リスク」という語は近代社会になってから出現した語であり、その語源はイタリア語の「risicare」からきている。このイタリア語は「勇気をもって試みる」という意味であり、選択や決断にはリスクが常にすでに伴うことを暗示する。

不可能性の時代 (岩波新書)

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