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マティスが好きな大学生の日常

ふつうの大学生のふつうの日常です。

ニーチェ『この人を見よ ( 光文社古典新訳文庫 )』

 ニーチェ『この人を見よ――人はどのようにして自分になるか』メモ。

【目次】
◎なぜ私はこんなに賢いのか
◎なぜ私はこんなに利口なのか
◎なぜ私はこんなに良い本を書くのか
◎なぜ私は運命であるのか




【抜き書き】

●私の使命は大きく、私の同時代人たちは小さい。そのアンバランスのせいで、私の言葉には耳も傾けられず、私の存在すら認められていない始末なのだ。私は誰からも借金をせず、自分の資金だけで生きているのに。


●私は、たとえば、こけおどしの張り子の虎などではない!


●誤りとは、盲目のことではない。誤りとは、臆病のことなのだ。認識における成果と前進はすべて、勇気から生まれる。自分に対する厳しさから生まれる。自分に対する清潔さから生まれる。


●嵐をもたらすのは、もっとも静かな声だ。鳩の足で歩いてくる思想が、世界を動かす。


●私はしゃべり方が違うだけでなく、人間が違うのだ。


●もしも私がなにかの達人になったのなら、それはパースペクティブを切り替えること、価値を切り替えること、これである。


●私には理解できないことだが、ユリウス・カエサルが私の父であるかもしれない。


●私が無神論に親しんでいるのは、考えた結果では絶対にない。ましてや出来事として経験したわけでもない。私の本能では無神論は当然なのだ。私はあまりにも好奇心が強く、あまりにも質問するのが好きで、あまりにも傲慢なので、大雑把な答えに満足できないのだ。神というのは、大雑把な答えである。われわれ考える人間にとっては、まずい料理である。


●選び抜かれた耳の持ち主に、ひとこと言っておこう。私がそもそも音楽に何を望んでいるか。10月の午後のように、晴れやかで、深いこと。自分をもっていて、奔放で、優しいこと。卑劣だが優雅で、小柄の可愛い女であること。


ショパンを残せるなら、ほかの音楽は全部捨ててもいい。


●私には涙と音楽の区別がつかない。


●私はもう言葉などではなく、稲妻でしゃべるような高みにいる。


●哲学者とは、すべてを危険にさらす爆薬だ。


●私の書くものは、道徳の頭上をダンスしながら越えていく。


この人を見よ (光文社古典新訳文庫)

この人を見よ (光文社古典新訳文庫)

大澤真幸『不可能性の時代』

 大澤真幸『不可能性の時代』メモ。

 1997年に起きた、神戸市須磨区での連続児童殺傷事件。犯人は、犯行声明を通じて、自らを「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った。彼は14歳だった。彼は犯行日記とも呼ぶべき手記を書いており、それによると一連の犯行は「バモイドオキ神」なる私的な神への儀式であった。

 この事件に対する大澤真幸の推理が冴えわたっている。


 一つだけ書き留めておくにする。

 「バモイドオキ」という名は「バイオ・モドキ」のアナグラムであろう ( !! ) 。彼は人間が本当に死ぬのか、生命なのか、バイオなのか知りたかったのだ。こいつら偽物だ、こいつらモドキじゃないのか?ゆえにこの殺人は生物学的実験なのだ。





 「リスク社会」の社会学的定式化についてのメモ。


 どのような視点から捉えても「救済」や「希望」の可能性を見出すことができない社会システム。このような社会システムを分析するための概念が社会学にはある。ウルリッヒ・ベックによって提唱された「リスク社会」なる概念がそれである。

 リスク社会とは何か?リスクはとりたてて現代に現れたものではなく、伝統社会にもあふれていたのではないか?たとえば自然災害の脅威はリスクではないのか?そうではない。そのことを理解するためには<リスク>と<危険>との相違を把握しておかなくてはならない。ニクラス・ルーマンがとくに強調していることだが<リスク>は選択・決定との相関でのみ現れる。<リスク>は選択・決定に伴う不確実性 ( の認知 ) に関係しているのだ。<リスク>とは何事かを選択したときに、それに伴って生じると ( 認知 ) された不確実な損害のことなのである。それゆえ伝統的な社会において自然災害は<リスク>ではない。それらは、自らの選択の帰結とは認知されていないからである。とすれば、リスクが<リスク>となるのは、社会秩序を律する規範やその環境が人間の選択の産物であるとの自覚が確立した近代以降だということになる。自然すらも社会がコントロールすべき環境だと認知されたときはじめて自然災害は<リスク>となる。

 だから<リスク>はアンソニー・ギデンズが近代の本質的な特徴として挙げている「再帰性」を必要条件としている。どのような行為も規範を前提にしている。ギデンズによれば近代社会においてはその規範への反省的・再帰的な態度が浸透し、常態化している。すなわち規範を「変えることができる or 変えるべきである」との自覚を前提にして、規範が不断にモニタリングされ修正や調整がほどこされるのが近代社会である。そして<リスク>は再帰的近代に至らなければ、ここかしこに見出されるような状態にはならない。実際「リスク」という語は近代社会になってから出現した語であり、その語源はイタリア語の「risicare」からきている。このイタリア語は「勇気をもって試みる」という意味であり、選択や決断にはリスクが常にすでに伴うことを暗示する。

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

猫と量子が見ている。宇宙が美しいのではない、宇宙を黒板にチョークで書けることが美しいのだ。

 松岡正剛さんの千夜千冊を本で読みたいけど、買うのは大変だな。学校の図書館で借りようと思ったけど、置いてなかった。


 調べてみたら経堂図書館に置いてあることがわかった。近いからさっそく行ってみよう。


 経堂図書館に着いて驚いた。やたらとコンビニエントな図書館なのだ。駅のすぐ近くにある。そして小さい。机がない。みんな抜け道として使っている。

 まぁそんな話はどうでもいいか。


 とにかく、経堂図書館に入って、検索して本の場所を調べて、『千夜千冊』がある本棚の前に来た。全8巻。第3巻だけ借りられていた。




 科学が扱われている第2巻の『猫と量子が見ている』を手にとって、イスに座って読みはじめた。午後2時。


 冒頭は、マイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』。きらきらしている。次は、寺田寅彦が懐手して宇宙見物。あぁ、こんな科学があるなんて!それから今西錦司の自然学、ジャンケンのゲーム理論アリストテレスのシステム工学、ライプニッツヴィーコ、中国技術史、博物学ラプラスの確率論、ゲーデル不完全性定理、ホワイトヘッドのオーガニック・プロセス、と続いていく。

 全部ページにありったけの知識と想像力が詰まっている。読んでいると時々松岡正剛という人が存在することがなんだか奇跡のようなことだと感じるほどに。


 岡潔虚数ケプラー『宇宙の神秘』、アインシュタイン湯川秀樹の耽美主義、トモナガ、デヴィド・ボーム『全体性と内部秩序』、エントロピー、時間の矢、ソリトンウィッテンM理論、鉱物学、世界樹、キノコ、山、シュレディンガーホメオスタシス利己的な遺伝子、男と女の進化論、ラマルク『動物哲学』、パンダ、ゴジラネオテニーエイズ、神の生物学、複雑系、自己組織化。百花繚乱。


 あとがきを読み終えたのが午後8時。本文だけで1106ページ。

 とにかく頭と腕が痛い。

松岡正剛千夜千冊

松岡正剛千夜千冊

野口悠紀雄『知の進化論 百科全書・グーグル・人工知能』をよむ。

12時5分。起床。今日から春休み。いつもより遅くめざめる。

とりあえず、机の上に置いてあった野口悠紀雄『知の進化論 百科全書・グーグル・人工知能』をよむ。



12時31分。読み終える。

呆れるほどつまらない。使っている知識は凡庸。分析は見当はずればかり。

こんな知識人は人工知能に滅ぼされてしまえばいいのだ!



12時41分。投稿。

今日から春休みがはじまるのだ。

フェデラー、ナダル、ドゥルーズ。

 明日で試験期間が終わる。そしてプルーストのように長い春休みが始まる。終わっては始まり、始まっては終わる。


 私は今までに、終わりのない始まりを見たことがない。


 試験期間は、朝と昼は勉強して夜はテニスを見ていた。フェデラーナダルの決勝戦が見たいな。どちらかが優勝すると思うと嬉しい。でも、どちらかが負ける。


 敗者のいない勝負を見たことがない。


 そして、ドゥルーズが書いたテニスについての文章を読む。

 マッケンローがエジプト美術のような姿勢とドストエフスキー的な反応をテニスにとりいれた、云々。

ミシェル・フーコーについて。

「人間は日付よりも動作や笑い声を鮮明に記憶しているものです。」



 ドゥルーズの『記号と事件』に納められたミシェル・フーコーについてのインタビューをよむ。



フーコーが、あの強烈で謎めいた人格をもって存在するということ、そしてあれだけの文体を駆使してあれほど美しい本を書いたということについて、私は喜び以外の感情をおぼえたことがないのです。」


フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。日常卑近な状況でも、すでにそうでした。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ気圧の変化とか、一種の<事件>、あるいは電界か磁場など、人間ならざるものに見えたのです。かといって優しさが足りなかったわけでもありません。」

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

セドリック・ヴィラーニ『定理が生まれる 天才数学者の思索と生活』

セドリック・ヴィラーニ。数学における私のヒーロー。


数学と物理学を新しい感覚で融合させた人。



今日は、久しぶりに『定理が生まれる 天才数学者の思索と生活』を読む。

34ページに載っている、2008年4月19日のメモを見ていて涙がでそうになる。これは、ダヴィンチがノートの隅に書き残したスケッチなのだ。


「当時は毎晩のように、紙がまっ黒になるほど、ノルムではないかとおもわれるものを探していた。」

定理が生まれる: 天才数学者の思索と生活

定理が生まれる: 天才数学者の思索と生活