マティスが好きな大学生の日常

ふつうの大学生のふつうの日常です。

【読書】並川孝儀『ブッダたちの仏教』

 並川孝儀『ブッダたちの仏教』。

 題名から分かるとおり、仏教とは「ゴータマ・ブッダただ一人の仏教」ではなく「ブッダたちの仏教」である、ということが本書の主張だ。そもそもブッダとは「目覚めた人」という意味であり、初期経典ではそのような意味で使われ、仏弟子たちもブッダと呼ばれている。しかし、時代が下るとブッダはゴータマ・ブッタを表す固有名詞として固定化されていく。

 そのような「ブッダ=ゴータマ・ブッダ」という考え方では仏教を理解できないのではないか、というのが本書の立場であり、第三章で筆者の仏教の定義が示される。

「仏教とは、最初に真理を悟ったゴータマ・ブッダと、それを追体験した仏教者たち、さらには真理が具現化された偉大なブッダたちが、そこに生きる人々にふさわしい苦悩からの脱却と救済を説き、一方でその教えを信じ、その道を歩んだ人々の総体である」。

ボクは坊さん。 - 科学のカラヴァッジョ派ブログ


ブッダたちの仏教 (ちくま新書)

ブッダたちの仏教 (ちくま新書)

斎藤慶典『「東洋」哲学の根本問題あるいは井筒俊彦』

 本書は「井筒俊彦の哲学」を「井筒俊彦の精神」によって乗り越えていく本だ。

 井筒俊彦は三十数ヶ国語を操れたとも言われる語学力をいかして、西洋を超える「東洋」哲学をつくろうとした。その過程で彼は古今東西の文献を原典で読み解き、そしてすべてを包み込むような大きな見取り図をつくった。その業績は世界的にも評価されている。しかし、彼は「無」というものを思考できなかったのではないか。いや、思考不可能性としてのみ現れる「無」を。若き日からうっすらと気づいていたにもかかわらず。


 とにかく本書のポイントは「無」だと思う。特に最後の章で、「無」から「政治」に抜けていく思考がとてもよかった。


「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦 (講談社選書メチエ)

「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦 (講談社選書メチエ)

西部進『保守の真髄 老酔狂で語る紊乱』

 西部進『保守の真髄』を読む。

 シュペングラーの『西洋の没落』についての話に興味を持った。

 渡部昇一は『西洋の没落』を完全に誤読して、「シュペングラーの教え」は「西洋の没落に取って代わって東洋の興隆が始まる」ことを予言した書物だとした。それに対して、西部によると『西洋の没落』はメソポタミア文明の昔からあらゆる文明が、あたかも植物の生態と同じように、春夏秋冬の季節を経巡って最後には枯死していく運命だと論じている書物である。

 東洋もまたいずれ没落する。

 さらに、シュペングラーは、文明の秋期から冬期にかけて、「新興宗教への異様な関心と新技術への異常な興味が高まる」と指摘した。その指摘を受けて西部は、特に「新技術への異常な興味」という部分に注目して現代日本を批判する。物事を「形式化と数量化」する技術とは、多面的な言語の機能を一方向のみに特化することであり、文明の病理以外の何ものでもないと。

池上彰『高校生からわかる原子力』

 池上彰『高校生からわかる原子力』を読む。

 アメリカとロシアが両方とも核兵器を持ってからの両国の駆け引きの話が書いてある「第3講 核開発競争始まる」がおもしろかった。

 もし相手の国が先に核ミサイルで攻撃を仕掛けてきたら、直ちに報復する。そうすると相手も報復しかえしてくるのでどちらの国も滅びる。

 そこから、「どちらが先に攻撃しても、結局両方とも全滅する」という認識をお互いが持てば、どちらも攻撃することができないという考えがでてきた。実際、この認識を共有しているのでどちらの国も攻撃することができなかった。

 しかし敵のミサイルを迎撃できるようになると、条件が変わり、攻撃ができるようになる。

 そこで、「相手が自国に向けて発射したミサイルを撃ち落とすのはやめよう」という条約を結んだ。こうすることでまた「どちらが先に攻撃しても、結局両方とも全滅する」という認識をお互い持っているので、どちらも攻撃ができない状態をつくった。

 国際政治っておもしろい。


高校生からわかる原子力 (集英社文庫)

高校生からわかる原子力 (集英社文庫)

山本義隆『福島の原発事故をめぐってーーいくつか学び考えたこと』

 山本義隆『福島の原発事故をめぐって』は2011年8月25日に発行された。著者の山本義隆東京大学の理学部物理学科博士課程を中退し、その後は科学史を在野で研究している。刊行時は駿台予備学校勤務。


 本書の原発批判のなかで一番興味深かったのは、核爆弾や原子炉は純粋に物理学理論のみにもとづいて生みだされたので危険だという指摘。


科学史家」山本義隆によれば「これまですべての兵器が技術者や軍人によって経験主義的に形成されていったのと異なり、核爆弾はその可能性も作動原理も百パーセント物理学者の頭脳のみから導きだされた。」よって、それまでの技術にはあった経験的基盤がなく「人間に許された限界」を越えている可能性がある。


 原子力は、すくなくともエネルギーの分野では初めての頭のなかで生まれた技術であり、それは私が思う以上に特別な事態なのかもしれない。


福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと

福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと

落合陽一『魔法の世紀』

 落合陽一さんの『魔法の世紀』の主張は、本文に引用されているアイバン・サザランドとフリードリヒ・フォン・シラーの言葉に集約されていると思う。


「自然は、その物質的な初源から無限の展開へと序曲を奏でている。物質としての束縛を少しずつ断ち切り、やがて自らの姿を自由に変えていく」( シラー )


「究極のディスプレイは、コンピュータが物体の存在をコントロールできる部屋になる。椅子が表示されれば座れるし、手錠を表示すれば誰かの自由を奪い、弾丸を表示すれば命を奪う。適切なプログラミングを用いれば、そのようなディスプレイは文字通りアリスが歩いたような不思議の国を実現するだろう」( サザランド )


 落合さんはこの二人のビジョンをコンピュータの力で現実にしようとしている。



魔法の世紀

魔法の世紀

オリヴァー・サックス『タングステンおじさん 化学と過ごした私の少年時代』

 オリヴァー・サックスの『タングステンおじさん 化学と過ごした私の少年時代』を読んでいて気になった、ヴィクトリア朝時代の化学文化についてのメモ。


ヴィクトリア朝時代には、人々が化学に熱烈な興味を抱いた。多くの家庭には、シダやステレオスコープと同じように、自前の実験室もあった。グリフィンの『趣味の化学』は1830年ごろに初版が刊行されたが、大変な人気を呼び、次々と改訂されて新しい版が出た。私が持っていたのは1860年に刊行された第10版である。」


「泡立ちや白熱光、悪臭や爆発などが、ほとんど決定的なまでに、私を化学の世界に引きずりこんだ。その際、手引きとなったもののひとつがグリフィンの『趣味の化学』だった。古本屋で見つけた本だ。グリフィンの書き方は平易で、実用的で、なにより遊び心にあふれていた。化学を本当に楽しんでいるようで、読者にも同じ楽しみを味わわせようとしていた。」